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「胃ろうをひっこ抜いてくれ」と訴える患者さんの話。

「胃ろうをひっこ抜いてくれ」と訴える患者さんの話。

 

 

 

「先生へ、ハラの胃瘻のパイプをひっこぬいて下さい。」

 

これは、とある入院患者さんが震える手で書かれた衝撃の告白です。

(患者さんから掲載の許可は得ておりますが、プライバシー保護のため設定は微妙に変えてあります)

 

彼は数カ月前に突然の脳梗塞に倒れ、急性期病院での療養の後僕が勤めるその病院へ転院となったということでした。

 

初めて会った時、彼の口は殆ど動かず、表情も乏しく元気がない様子。 看護師さんたちからも「意思疎通が難しい寝たきりの患者さん」と評価されていたようでした。

 

 

でも、なんとか手は動くようだったので小さなホワイトボードを出してみると、震えながらも動く右手で、ゆっくりと字を書こうとされました。

でも、その字はなかなか読み取れません。脳梗塞の後遺症はどうやらかなり手ごわそうでした。

 

しかし、その後、彼はその後の懸命のリハビリで劇的に回復し、たったの数週間後で会話も書字も上達し、しっかりと意思表示が出来るようにまでなりました。

そんな矢先、彼が僕に向けて書いたのがこの言葉だったのです。

 

「先生へ、ハラのイロウのパイプをひっこぬいてください。」

 

胃ろうを引っこ抜いて下さい

 

 

僕はそのあからさまな告白に言葉を失いました。

「ひっこぬく」という表現には、明らかな嫌悪感が込められています。

 

だいぶ口から食べられるようになったとはいえ、食べられる量はまだまだ十分とは言えません。


僕は言いました。

「◯◯さん、足りない栄養はどうするの?」

彼は震える手で続けました。


「イロウを抜いたあとははなの管を入れれば良いと思います。(そもそも)イロウをしたら自宅へかえす、しないと施設に入れるといわれた。」と。

 

どうやら彼は、前の病院の医師かスタッフに

『騙された』と思っているようです。彼は続けます。

 

「あのときは高熱で頭がボーッとしていました。ふつうなら法務局人権擁護課にれんらくしたと思う。・・(これを)公開する。」

 

 

 

まあ、物騒なことですね(^_^;)。

ことの真偽の程は分かりませんが、とにかく彼は、

 

 自宅に帰りたい

 →そのために胃瘻に同意した

 →なのに帰れない

 →騙された!

 

と思っているのです。

その上で、いま僕に「胃瘻を抜け」と言っているのです。

 

さあ、こんな時、我々医療者はどうすればいいのでしょうか…??

 

もちろん、『医学的な正解』という意味で考えれば、

 

「可能な限り自由に口から食べてもらいながら、それでも足りない栄養分を胃瘻からの注入で補う」

 

多分、これが正解でしょう。仮に自宅に帰ったとしても、胃瘻を入れておいたほうが介護・看護はやりやすいでしょうから。

  

…ではその『医学的正解』を患者さん本人が拒否したら?

おそらく一般的な医療現場では、まず、

 

「医学的な正解についてしっかり説明する(そして納得してもらう)」

 

という方向に動くでしょう。 

実際、すでに、病棟のスタッフの間ではそんな空気になりつつありました。

 

でも待ってください。

多分、前の病院のスタッフが

『おなかに胃瘻の管を入れてきちんと栄養を補給する』

という完全なる医学的正解を遂行した時も同じだったのではないでしょうか?

今と同じような流れで前の病院でも『説明・説得』を行った結果、

『騙された、公開する』ということになったのでは?。

となると、今回も同じ展開に・・?。

…本当に医療って難しいですね。

 

もちろん、ここまでしっかりと意思表示が出来るのですから、彼もそんな医学的正解は重々承知。

それでも胃瘻を抜けと言っているわけです…。

ますます悩ましいですね…。

 

しかし、どうして彼はそんなことを言うのでしょう??

何度も何度も考えて、悩んだ結果、僕はこう思うようになりました。

 

「そうだよな〜、タバコだって体に悪いってみんな知ってるけど、それでも吸うのは自由。太ってたら健康に悪いってわかってても、美味しいものを食べるのは自由。オートバイで転んだら死ぬかもしれない、それでも乗りたい人は乗るし、バイク屋さんではバイクも売ってる。

みんなリスクを承知で、自分の責任で人生を選択し、楽しんでる。それが人生というもので…全部が全部、正解を押し付けられたら窮屈。

でも医療の世界では、ある日運悪く患者になった瞬間に、なんでも医学的正解、医療側の理屈に従わされる。拒否すると「問題患者」と言われる。患者さんの思いに配慮することよりも、医学的な正解で患者さんを『支配・管理』して強権的に決めるのが普通になってしまっている。彼のおなかの『胃瘻の管』は、そんな医療による『支配・管理』の象徴、いやそれに屈した『敗北の象徴』だったんじゃないかな。 そんなものが自分の体にいつまでもあったら、いい気はしないよな〜」と。

 

 ・・・で、結果から言いますと、

彼は自宅へ帰りました。もちろん、胃瘻の管も抜いて(^_^)。


この写真は、先日その彼の自宅に、ふと立ち寄ってお話を聞いた時のものです。

 

 

 

 

 

素敵な笑顔ですね。

退院時は微妙だった口からの栄養量も、もう十分。

彼は、勝ちました。

 

強固に抵抗しなければ退けることが出来ない、

『医学的正解』という名の強制力から自分の自由を守りぬいたのです。

では、僕ら医療者は彼に負けたのでしょうか?

いや、そもそも……もうおわかりですよね、

そもそも僕らは戦う必要などなかったのです。

彼の人生の選択は彼の課題であって、我々の課題ではない。

医療従事者は、決して見放すわけではなく、

彼の人生に寄り添って支援すればいい。

 

それを教えてくれたのは、自宅での彼のすてきな笑顔でした。

 

・・とはいえ、今後彼がまた食べられなくなるかもしれません。

その時どうしましょう?

彼なら、その時なんて言うでしょう?

意識がなく、答えてくれなかったら?

 

そこにエビデンス(過去のデータから得られた医学的正解)はあるでしょう。

しかし、たとえどんな状況になっても、彼の人生にとっての正解はまた別にあるのかも知れません。 

 

 

僕ら医療従事者はそこまで思いを馳せなければ、本当に彼が満足する医療を提供できないのでしょう。

(今度彼に下手な医療を提供したら、本当に訴えられるかもしれません(^_^;))

 

 医療って、本当に難しいですね。

正解なんてない。でも、だからこそ面白いし、やりがいがある。

そこまで考えることが本当の「患者中心」の医療 なのかもしれません。


その日僕は、彼とひとしきり笑いあったあと、彼の自宅をあとにしました。

 

 「自由を勝ち取った」彼を背にして僕が向かうのは、

『医学的正解による支配・管理』が渦を巻いている病院の世界です。

 

 さあ、今度は何が起こるかな?(^_^;)

 

p.s.
その後彼は、数年自宅で生活されましたが、最後は自宅で誤嚥性肺炎を発症し、病院でお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします。(僕はお通夜にも出席させていただきました。)

 

 


 

 

 

 

 

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