

2019/9/6
南日本新聞・南点
「私の下半身に入っている尿の管を抜いて下さい。 不快感と痛み・痒みで耐えられないのです。」
これは、私がある高齢女性患者さんから聞いた告白である。
しかしそれは、それまで診察を受けたどの医師の判断でも、また私の判断でも、間違いなく抜くべきではない管だった。抜いたら再度膀胱炎になる可能性が高かったのである。
それでも、私は最終的に彼女の管を抜くことに同意した。
それは、こちらからの医学的判断を十分に説明し、またこちらも彼女の思いを十分に聞いた結果だった。彼女は涙を流して喜んでくれた。
高齢者医療の世界では、彼女のように医療的に必要な処置を拒む人がいる。また、肺炎を繰り返しているのに「どうしても口から食べたい!」という人もいる。
私は思う、「試してみればいいじゃないか」と。
もちろん同業者からはよく「何かあったらどうするんだ?」と言われる。
でも、よく考えてみれば「何かあるに決まってるのが人生」。特に高齢の方々にとって人生はそんなに長い時間が残されておらず、その短い余生の最後に「何か」があって人生が終わるわけである。
その「何か」が何になるのか、何にするのか。その人生の選択は本人の課題であって我々医療者の課題ではないのではないだろうか。
そう、実は「何かあったら困る」のは患者にもまして医者の方なのである。
そして、そこまで腹を割って話しあえる信頼関係の上で行われる選択はどう転んでも間違いにはならないだろう。逆に、患者さんの気持ちを聞くこともなく、患者さんの幸福に向かわないで、「何かあったら…」と医者の保身のために行われる医療の方が、本質的に考えればとても危険な医療ではないだろうか。
冒頭の管を抜いた患者さんは、今でも管を抜いたまま、特に大きな問題もなく元気に生活されている。自戒を込めて言うが、医療はもっと謙虚にそして誠実に患者と向き合うことを再考すべきである。
(本記事は令和元年9月6日掲載の南日本新聞「南点」のテキスト版です。